銅版画について


 

 手彩色銅版画制作工程

① 紙を傷つけないよう面取りした銅板を熱し、表面を防触剤で覆いろうそくのススで表面を黒くします。

② ニードル(針)を使って表面を削り剥がしながら、擦った線で絵の原版をイメージします。

③ 削った部分を硝酸で腐食させ凹部にインクを詰め込み、表面の不要なインクをふき取って銅版と紙を重ねてプレス機を通します。

④ 詰め込まれたインクが紙に染込み銅版画が出来上がり、それに手彩色していきます。

⑤ 仕上がりを詳細にチェックし、最後に自著サインとエディション番号(限定番号)を入れます。



・銅版画の由来

 銅板を原版とする版画を指すが,版のつくり方は凹版が普通である。凸版は例外的で,15世紀後半に金工家が作ったクリブレ版 gravure au criblレ(フランス語。英語では dotted print)と1720年代のカーコール Elisha Kirkall(1692‐1750),1788‐1820年ごろの W. ブレーク,および押印風に用いられた宗教図像などに限られる。
 凹版は金属板面に図を刻み,そこにインキをつめる。したがって図を刻みこむこと自体は金工品の歴史とともに古いし,刻線を見やすくするために白色や黒色(ニエロ)の粉末をそこに充浬することは古代ギリシア,エトルリア以来,西洋中世を通じて行われてきた。それが版画となるためには,刻線に流れ出ない程度の固さのインキをつめ,台材となる紙などに写し取らせればよい。溝の中のインキを紙に付着させるのは,凸版のように簡単でなく,ブドウ搾り機に似た加圧機を要した。それが最初に行われたのは1430年代の,おそらくライン川上流域の金工家の工房であったが,やがてヨーロッパ全土に普及し,精緻な再現性によって16世紀以来西欧版画の主流となった。
 製版法は大別して2種類あり,その第1は直接に道具で版面を加工する方法,第2は硝酸などで腐食させて刻線を得る方法である。前者のうちビュラン burin(フランス語)という一種ののみによる彫刻銅版画(エングレービング engraving)が最も古く,また19世紀まで最も尊重されてきた。


・彫刻銅版画

 初期には署名のないものが普通だが,おもな版画家としてライン川上流では〈トランプ・カードの画家〉,〈E. S. の画家〉,M. ションガウアー,〈L. Cz. の画家〉など,下流では〈愛の園の画家〉,〈F. V. B. の画家〉,メッケネム,L. ファン・レイデン,イタリアでは A. ポライウオロ,A.マンテーニャらが挙げられ,次いでドイツのデューラーの版画がヨーロッパで広く知られた。彼の周辺の同時代人,弟子たちの〈小ものの画家(Kleinmeister)〉たちは,創作もするが他人の版画の複製も多い。ラファエロの絵画・素描の複製を専門とし,19世紀まで古典主義の手本として永く大きな影響を及ぼしたのはイタリアの M. ライモンディであった。彼とラファエロを仲介したバビエラBaviera は版元の先駆と考えられるが,1527年の〈ローマ劫掠〉後はサラマンカ Antonio Salamanca(1500ころ‐62),次いで,フランス人ラフレリAntoine Lafrレry(1512‐77)がそれを継ぐ。
 北方では H. コックの店〈四方の風 Aux QuatreVents〉が1548年からアントワープにこのような版元制度を導入した。彼はイタリアの画家の素描を版画化してイタリア・ルネサンスとマニエリスムを普及させ,また H. ボスの素描を複製して,P. ブリューゲルを中心とするフランドル風刺精神の復活にも貢献した。これにならって多くの版画家が素描・絵画および版画の複製化に努めた。彼らはいずれも自ら多作の版画家でもあり,16世紀後半のアントワープは最大の版画製作地となった。またプラハのルドルフ2世の宮廷や,ミュンヘン,ベネチアで活躍したサドレル Sadler 家の版画家をはじめとして,その他にもフランクフルト,ローマ,パリなど国外の各地で仕事をする版画家が現れ,彼らの熟練した版画技術のみならず,後期マニエリスムの国際化に一役買った。またコルネリス・コルトがローマでアゴスティノ・カラッチを通じてアカデミズム版画の形成に寄与したように,いずれもそれぞれの土地の17世紀の版画のみならず,絵画の形成にも参画している。H. コック未亡人から原版を買い受けるなどして二十数台の印刷機を擁するヨーロッパ最大の出版業を営んだのは C. プランタンであり,彼は当時最盛期にあったスペイン植民地における教会用印刷物供給の独占権をフェリペ2世から得た。日本のイエズス会系洋風画(16世紀)の原型の大部分がアントワープ製版画に基づくのも,上記のことと無関係ではない。このような版画の普及はコルトの例のように,その表現力,再現力の拡充に基づいている。しかし,ハールレムの H. ホルツィウスはコルト流の線のうねりや肥瘠をさらに大きくし,線と線の間隔も広げる。その結果,刻線は再現のためというよりビュランのアクロバティックな曲線そのものの動きや交錯のおもしろさを表現する場合があり,弟子のマタム Jacob Matham(1571‐1631),ミュレル JanM‰ller(1570ころ‐1625ころ),P. J. サーンレダムらに引き継がれた。またルーベンスは優れた版画家群に自作を複製させ,彫刻銅版画の古典的技法形成に一役買った。
 フランスでは16世紀に地方で黙示録に独自の幻想を深めた J. デュベや17世紀では肖像版画にR. ナントゥイユのように優れた創作版画家もいたが,17,18世紀は複製版画が一般的になり,それにはより製作が容易な腐食法による版に,仕上げをビュランでするという複合技法が用いられた。したがって,18世紀までの版画の大部分はこの技法による表現となっている。彫刻銅版画の熟達には他の技法以上に修練を要するし,でき上がりも古典主義的な完結感があるので,19世紀後半には時代の好みと合わなくなったが,20世紀には少数ながら復活した。


・腐食銅版画

 彫刻法についで重要な技法は腐食法,いわゆるエッチング etching(フランス語ではオーフォルト eau‐forte)である。製版法は硝酸に対する防食剤 ground(フランス語ではvernis)を塗付した銅板上に針でひっかいて描く。エングレービングに比べるとはるかにデッサンに近い運筆の自由さと即興性が保たれ,修正も可能である。刻線自体にはビュラン彫のような滑らかさはないが,独自の趣がある。したがってこの版画は専門的版画家だけでなく,画家たちによっても発展するが,発生はやはり金工家の工房においてであった。金属を一種のワックスで防食し酸による腐食で装飾することは14世紀以来行われてきたが,それは必ずしも銅ではなかった。1500年ころアウクスブルクのホッファー Daniel Hopfer(1470ころ‐1536)の金工工房でエッチングが初めて試みられたときも腐食したのは鉄板であり,デューラー,アルトドルファー,ヒルシュフォーゲルAugustin Hirschvogel(1503ころ‐53),ブルクマイアなどのエッチングはいずれも鉄版でなされた。
 1520年代にネーデルラントの L. ファン・レイデンが銅版のエッチングをはじめ,16世紀中期から全ヨーロッパに行われる。たとえばイタリアでは1520年代のマニエリスト,パルミジャニーノ,1580年代の F. バロッチ,17世紀にはカラバッジョ,G. レーニ,グエルチーノ,G. B. カスティリオーネなども制作する。18世紀にはカナレット,ティエポロ父子などの画家たち,建築家で大版画家のピラネージがいる。フランスでは1540年代のフォンテンブロー派の版画家群と J. de ベランジュそしてイタリアで学んだ J. カロ,それに学ぶ A. ボスらはエショップ レchoppe(フランス語)という線の太さが自在に変化できる道具でエングレービングと見まがうような表現をエッチングで行った。18世紀には J. A.ワトー,F. ブーシェ,J. H. フラゴナールらの画家のほかに,サントーバン家,コシャン Cochin 家,モロー Moreau 家その他の多数の優れた職業的版画家群がフランス絵画を版画化し,広く国外に印象づけた。フランドルでは A. ファン・デイクの《肖像画集》,イギリスではボヘミア出身のホラーWenzel Hollar(1607‐77)が多様な作品をつくり,18世紀には W. ホガースが版画を教訓に用いる。風刺を引き継ぐのは T. ローランドソン,さらに J.ギルレー,G. クルックシャンクらがイギリス戯画の伝統を固めていく。オランダではファン・ヘームスケルク,フェルメイエン Jan Cornelisz. Vermeyen(1500ころ‐59),たった1点だが P. ブリューゲル,ド・ゲイン2世 Jacob II de Gheyn(1565‐1629),ガウト Hendrick Goudt(1585‐1630),あらゆる技法の粋を凝らし色刷りも行った H. セーヘルスらを先行者としてエッチングの巨匠レンブラントの時代を迎える。風俗版画に A. ファン・オスターデ,風景にロイスダール Jacob van Ruisdael(1628か29‐82),イタリア風の風景にブレーンベルフBartholom∵us Breenbergh(1599‐1659以前),ボト Jan Both(1610‐52),ベルヘム NicolaesBerchem(1620‐83),デュジャルダン KarelDujardin(1622‐78),スバネフェルト Herman vanSwanevelt(1600ころ‐55ころ),海景にド・フリーヘル Simon Jacobsz. de Vlieger(1600ころ‐53),ゼーマン Reynier Zeeman(1623ころ‐67ころ)ら極盛期の観を呈する。スペインでは黄金時代の画家たちも余技程度にしか制作しないが,18世紀末にゴヤがアクアティントを併用しながら4種の大連作をつくり,19,20世紀に強い影響を与えた。各種の本の挿絵としても銅版画が用いられ,それらがエングレービングの体裁をとる場合にもしばしばエッチングによって版のおおよそをつくることが多かった。
 19世紀の中期から再び画家の創作エッチングが復活する。フランスの F. ブラックモン,メリヨン,コロー,ミレー,マネ,ドービニー,ブレズダン,ピサロ,ドガ,アメリカ生れのホイッスラー,M. カサット,オランダ人ヨンキント,スウェーデン人ソルンAnders Zorn(1860‐1920)ら枚挙にいとまがないが,画家たちがリトグラフと同じく気軽に版画制作をする時代を迎えるのである。


・その他の銅版画技法 

 (1)ビュランの代りに版面に直接に鉄針で描くドライ・ポイント dry point(フランス語ではポアント・セッシュ pointe s≡che)は,エッチングと同じ即興的な自由があるが,修正は困難で熟練を要する。刻線の縁にできる金属のめくれ(バー burr)にたまったインキが刻線に独特のにじみの効果をつくる。めくれは脆いので大量印刷に向かないが,このめくれを削り取った刻線はビュラン彫の線と区別しにくい。1480年ころの〈ハウスブーフの画家 Hausbuchmeister〉(1467‐1507活躍)がこの技法だけで製版したが,それ以後はおもにエッチングのあとに版面効果の調整用の補筆として用いられた。例外的にレンブラントとその弟子たちがこの技法を好んだ。19世紀の後半にはレンブラントを研究したヘイドン SeymourHaden(1818‐1910)をはじめとして,この即興的で妙技の冴える技法が世紀末のフランス社交界の肖像画家 P. C. エルー,あるいはアメリカ人 M. カサットらに好まれた。またドイツ表現派は木版と同じくドライ・ポイントのなまなましい情感の直接的な表出性にひかれた。

 (2)点描法によるスティップル・メソッド stipplemethod では点は1列に並べば線となり,広く散らされると面にもなる。エングレービングによるものとエッチングによるものとがある。16世紀初頭のベネチア派のカンパニョーラ Giulio Campagnola(1482ころ‐1518ころ)は輪郭線以外のすべてをビュランの刻点の濃淡によって描き表したが,デューラーその他の銅版画家の多くは,部分的に点描を用いて微妙な陰影を表した。エッチングにおいて点描を多用したのは J. de ベランジュである。また両方の長所をとって,ビュランで防食被膜を点刻して腐食させる技法も行われ,F. バルトロッツィ,チプリアーニ Giovanni Battista Cipriani(1727‐85)がこの技法で知られた。

 (3)クレヨン法 crayon manner は防食被膜にモレットやルーレットという多数の小突起がついた道具で版をつくり,チョークやパステルによる絵の粉っぽい効果を版画で再現するために,1757年フランソア Jean‐Charles Franぅois(1717‐69)によって考案された。ドマルトー Gilles Demarteau(1729‐76),ボネ Louis‐Marin Bonnet(1743‐93)がその名手で,後者は数枚の版による精巧な多色刷をつくった。

 (4)鉛筆やチョークに似た効果はソフト・グランド・エッチング soft‐ground etching(フランス語ではベルニ・ムー verni mou)によっても得られる。この技法は柔らかい防食膜上に紙をのせ,上から鉛筆で描くと,鉛筆の圧力のかかった部分の被膜が紙とともにとれて,その部分が腐食される。G. B.カスティリオーネが1640年代に用いたが,以後18世紀まで忘れられていた。おそらくクレヨン法と同じくフランソアが実用化し18世紀にしばしば使われた。

 (5)メゾティント mezzotint(フランス語ではマニエール・ノアール mani≡re noire)はロッカー rocker(フランス語ではベルソー berceau)という道具で版面に縦横斜めに刻線を交錯させ細かく傷つける。インキをつめるとビロードのような黒一色に刷れるところを,明部をバーニッシャー burnisher あるいはスクレーパー scraper などで凹凸を削ったり磨いたりしてインキのつき方を加減する。インキの拭き取り方などに熟練を要するとはいえ,これはほとんど現代の写真版と変わらない効果をつくる。ドイツのフォン・ジーゲン Ludwig von Siegen(1609‐80ころ)が1642年以前にこの技法を発見し,ルプレヒト Ruprecht 公(1619‐82)が改良を加えた。この技法はドゥサルト Cornelis Dusart(1660‐1704)以下オランダで絵画の複製法として好まれ,さらに18世紀のイギリスでも複製版画としてスミス John Raphael Smith(1752‐1813),マッカーデル James MacAdell(1728‐65),ワトソンThomas Watson(1748‐81)らを輩出させ,〈イギリス式版画 mani≡re anglaise〉と呼ばれるほどであった。J. マーティンやターナー,コンスタブルらの絵画も複製されるが,19世紀後半には流行が衰えた。それを現代に復活させたのは長谷川潔であり,M. アバティ,浜口陽三たちがこれを継ぐ。

 (6)アクアティント aquatint はメゾティントのように面的な加工・表現を可能とする。松脂(まつやに)の粉末を銅板に振りかけ,熱で固定して防食剤とするもので,水彩のような効果を生むことがある。一般にフランスのル・プランス Jean‐Baptiste LePrince(1734‐81)が1768年以前に発見し彼以後定着した技法とされるが,16世紀の D. ホッファーや M. ライモンディ,17世紀のレンブラントやファン・デ・フェルデ Jan van de Velde(1593‐1641)らが個別的に用いてはいた。アクアティントによる水彩風の色刷りは,エッチングと併用されて版画の調子を整えるのに便利である。色刷り版画は18世紀前半にドイツ人ル・ブロン Jakob Christof LeBlon(1667‐1741)がメゾティント版でニュートンの三原色原理を応用して色刷りの絵画複製に成功し,フランスのゴーティエ・ダゴティ Jacques‐Fabien Gautier‐Dagoty(1710‐81)がさらに墨版を加えて精度を高めた。アクアティント版でもドビュクール Philibert‐Louis Debucourt(1755‐1832)やその他の版画家が色刷りを実用化したが,1830年ころから絶えていたのを19世紀末に M. カサットが復活させた。単色で用いて優れた効果を生み出したのはゴヤであった。

 (7)シュガー・アクアティント sugar aquatint(liftground process)は銅板に砂糖液で直接描き,乾いたところにアスファルトの防食膜をかけ,水につけて溶けた砂糖分の版面が露出し,そこが腐食される。アクアティントと逆の凹凸になるが,より柔軟な効果をもつ。H. セーヘルスが17世紀に実施していたが,以後19世紀まで忘れられていた。しかし20世紀になって多くの画家に再び用いられるようになった。
 現代では,各作家が版画のあらゆる表現の可能性を探求し,従来の技法の再興とその複合化もしばしばみられる。


・日本における銅版画

 日本には16世紀末にイエズス会によって彫刻銅版画(エングレービング)が導入されたが,17世紀初めにキリシタン弾圧によって断絶した。18世紀後半に司馬江漢がエッチングを再興し,亜欧堂田善,安田雷洲ら注目すべき作家を生んだ。開国後イタリアから招聘したキヨソーネが再びエングレービングを教え,腐食法とともに実用的な挿図,地図などに用いられた。芸術的銅版画の復活は20世紀に入ってからのことであった。


(著)坂本 満 
(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.